忍者ブログ
8 9 1 7 6 5 4
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

1939年9月1日にドイツ軍とドイツと同盟したスロヴァキアの軍部隊が、9月17日にソ連軍がポーランド領内に武力侵攻したことを指す。ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが相互援護条約を元に9月3日にドイツに宣戦布告し、ポーランド侵攻は第二次世界大戦に拡大することになる。

ポーランドへの侵攻作戦はソ連外相モロトフとドイツ外相リッベントロップの独ソ不可侵条約調印の一週間後、すなわち1939年9月1日に開始され、同年10月6日にドイツとソ連は実質的にポーランド全域の占領を完了することとなった。ポーランド分割占領は先の条約の秘密合意事項であった訳である。その暁にドイツ・ソビエト境界友好条約が結ばれた。ポーランド侵攻が後に第一次世界大戦を規模においても被害においても凌駕する大規模な世界戦争になるとは当時誰も予想しなかった。

ヒトラーは自作自演の「ポーランド正規軍によるドイツ領のラジオ放送局への攻撃」(グライヴィッツ事件)を口実にドイツ軍にポーランドに対し北部、南部、西部の三方面から攻撃を命令した。ドイツ参謀本部はこの作戦に「白の件(Fall weiß)」という秘匿名称を付けて準備していた。

ドイツと接する長大な国境線を薄く浅くしか防衛準備出来なかったポーランド陸軍は、開戦後すぐにドイツ軍に押されて東へと戦線を後退させられた。9月中旬にワルシャワ西方のクトノ市での戦い(ブルザの戦い)に破れると、戦局はドイツ軍に有利となり、ポーランド軍はさらに自国領の東南部へ後退を始め、ルーマニアとソ連と国境を接するルーマニア橋頭堡に防衛陣地を固持し、イギリスやフランスの同盟国によるドイツ攻撃と救援を待ち持久戦に入る計画であった。

1939年9月17日、ドイツ軍の侵攻に呼応しソ連軍がポーランド東部へ侵攻を開始した。東ヨーロッパをドイツとソ連が分割支配する独ソ不可侵条約の「秘密議定書」をソ連が忠実に実行した訳である。ソ連によるポーランド攻撃によってヒトラーの軍隊はワルシャワ攻略に集中することができるようになった。ソ連による侵略はポーランドにとっては予想外であった。ポーランド政府はルーマニア橋頭堡の防衛はもはや不可能と判断し、全軍に対し中立国のルーマニアへの脱出を命令した。10月1日までにドイツ軍とソ連軍はポーランド全域を完全に制圧した。ポーランド政府は降伏せず、残存する陸軍および空軍の部隊と共にルーマニアとハンガリーへ脱出した。脱出したポーランド軍将兵の多数は後に西側の自由ポーランド軍に参加し、フランス、フランス統治下のシリアを経てイギリスで闘うことになる。

占領下のポーランドは第二次大戦を通じて強力な対独レジスタンス運動を展開し、また亡命ポーランド人部隊は連合国に対し多大な軍事的貢献をした。ドイツは1941年6月22日にバルバロッサ作戦を開始し、ソ連占領下のポーランドを奪うが、1944年には反撃するソ連軍に対しその地をまた明け渡すことになる。ドイツとソ連の5ヵ年以上の占領期間にポーランドの全人口の20%が殺害され、ポーランド第二共和国は事実上消滅することになった。

PR
スポンサードリンク
忍者ブログ [PR]
"T" WROTE ALL ARTICLES.
PRODUCED BY SHINOBI.JP @ SAMURAI FACTORY INC.